群馬出身の望郷男と、群馬県のこと知らない他国者が、勝手に書き込んでいるブログです
2017年 08月 03日
偶然関所跡だった!
二泊三日の群馬旅行でこの日の宿だけは予約していた。
そこは、これまで葬儀や法事の時にいつも兄弟で泊まっていた、安中市の杉並木の近くにあるホテルだった。
草津で雷雨に遭って、「ちぃっと早いけど、はぁホテルィ入ぇってゆっくりするべぇ」と思ってナビにそのホテルの場所を入力して走り出したんさぁ。
途中まで来ると、でっかい橋に出たら橋の下の方が何だか騒がしい、橋の下に滝があるみてぇに水の音がする、ナビが左ぃ曲がれっていうから左に曲がってすぐ左に空き地があったんでそこぃ車を入れた、その空き地には
関所跡だっつうんで関所の門だけが作られていた。
向こうの六角の建物は単に休憩所みたいだった。
写真の赤い幟旗の向こうに関所の門だけが復元されていた。
俺はそれより、水の音の方が気になったんさぁ、滝の音に似てるけどこんな平坦な土地に滝があるわけもねぇだんべぇと思いながらそこいらをのぞき込んでみたけど滝っつう程のもなぁなかった。
元のところに戻ってその関所跡っつうのをよく見てみると・・・・。
偶然ここは国定忠治が処刑された地という由緒ある?関所跡だった。
大戸関所跡 群馬県吾妻郡吾妻町大戸
うちぃけぇってっから調べてみると・・・・
大戸関所は、中山道の脇往還(わきおうかん=もうひとつの街道)で、碓氷関所の裏固めの意味を持っている。以後230余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年9月に廃止された。
関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑された記録がある。
通行の門限は明六つから暮六つ(午前6時から午後6時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、荻生、本宿の3ヶ村は関所番人をを出し、警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ、近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていた。
大戸の関所と国定忠治
天保3年、徳川家慶の日光参詣の際に、幕府は博徒・無宿者の取り締まりを強化し身の危険を感じた国定忠治は大戸の関所を破り会津へ逃げた。
10年余りして、ほとぼりが冷めたころになって忠治は大戸に帰って来たがその後捕らえられて江戸に送られ、吟味の末に、関所を破ったこの大戸の地で処刑されることになり。磔(はりつけ)になった。
しかしその後10年余りしてこの関所のある地から3里ほどの街道沿いの忠治が処刑された場所に村人たちによって、「忠治地蔵」というお地蔵さんが建立された。
忠治地蔵
これは、この地での大飢饉のとき忠治は餓死しそうな村人を見て、代官所に、米を出すように掛け合ったが聞き入れられず、大勢の村人を救うためにと言って代官を切ってしまったのだった。
そのことによって、村人たちは餓死を免れ、村人たちは忠治を命の恩人と崇めていたのだった。
屋号
この地の街道(国道406)を走っていると、普通の住宅にもこんな看板が立っている
この町ではそれぞれのお宅を昔ながらの屋号で呼び合っているようだ。
他国者
「赤城の山もこよい限り」とはどういう意味ですか?
忠治 : 赤城の山も今夜限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、国(故郷)を捨て、可愛い子分のてめえ達とも 別れ別れになるかどで(首途)だ。
貞八 : そういやあ 何だか 嫌に寂しい気がしやすぜ。
巌鉄 : ああ、雁が鳴いて 南の空へ飛んで往かあ!
忠治 : 月も西山に傾くようだあ。
貞八 : おらあ 明日からどっちへ行こう?
忠治 : 心の向くまま 足の向くまま、あても果てしもねえ旅に立つのだ。
巌鉄・貞八 : 親分!
群馬男
その話は順番としては、大戸の関の話より前の話です、このころもすでに幕府の役人に追われて、赤城の山の中腹の洞穴に隠れていましたが、役人にそれが知れて、周囲をぐるり囲まれて、しまって、
大勢の子分を連れて逃げるんは無理と考えた忠治は、今風に言うと「ここでいったん解散するべぇ」と子分たちと「お別れ会」の場面だ。そのあとあっちこっち逃げ回って、大戸の里にたどり着いたっつうことになる。
だから、ここ大戸は赤城山の隣にある榛名山の麓のことになるんだ。
名月赤城山の名場面だ。
このとき忠治が隠れていた、洞穴のちょっと上の方に滝沢不動の滝っつういい滝があっておらぁなんねんか前に行って来た。(また、滝の話んなっちゃった、ごめん!)
ついでにその滝沢不動の滝の写真も
他国者
さすが 群馬男です。 \(^o^)/パチパチパチです
国定忠治最後の地 大戸の関
(812)国定忠治と大戸の関
偶然関所跡だった!
二泊三日の群馬旅行でこの日の宿だけは予約していた。
そこは、これまで葬儀や法事の時にいつも兄弟で泊まっていた、安中市の杉並木の近くにあるホテルだった。
草津で雷雨に遭って、「ちぃっと早いけど、はぁホテルィ入ぇってゆっくりするべぇ」と思ってナビにそのホテルの場所を入力して走り出したんさぁ。
途中まで来ると、でっかい橋に出たら橋の下の方が何だか騒がしい、橋の下に滝があるみてぇに水の音がする、ナビが左ぃ曲がれっていうから左に曲がってすぐ左に空き地があったんでそこぃ車を入れた、その空き地には
関所跡だっつうんで関所の門だけが作られていた。
向こうの六角の建物は単に休憩所みたいだった。
写真の赤い幟旗の向こうに関所の門だけが復元されていた。
俺はそれより、水の音の方が気になったんさぁ、滝の音に似てるけどこんな平坦な土地に滝があるわけもねぇだんべぇと思いながらそこいらをのぞき込んでみたけど滝っつう程のもなぁなかった。
元のところに戻ってその関所跡っつうのをよく見てみると・・・・。
偶然ここは国定忠治が処刑された地という由緒ある?関所跡だった。
大戸関所跡 群馬県吾妻郡吾妻町大戸
うちぃけぇってっから調べてみると・・・・
大戸関所は、中山道の脇往還(わきおうかん=もうひとつの街道)で、碓氷関所の裏固めの意味を持っている。以後230余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年9月に廃止された。
関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑された記録がある。
通行の門限は明六つから暮六つ(午前6時から午後6時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、荻生、本宿の3ヶ村は関所番人をを出し、警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ、近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていた。
大戸の関所と国定忠治
天保3年、徳川家慶の日光参詣の際に、幕府は博徒・無宿者の取り締まりを強化し身の危険を感じた国定忠治は大戸の関所を破り会津へ逃げた。
10年余りして、ほとぼりが冷めたころになって忠治は大戸に帰って来たがその後捕らえられて江戸に送られ、吟味の末に、関所を破ったこの大戸の地で処刑されることになり。磔(はりつけ)になった。
しかしその後10年余りしてこの関所のある地から3里ほどの街道沿いの忠治が処刑された場所に村人たちによって、「忠治地蔵」というお地蔵さんが建立された。
忠治地蔵
これは、この地での大飢饉のとき忠治は餓死しそうな村人を見て、代官所に、米を出すように掛け合ったが聞き入れられず、大勢の村人を救うためにと言って代官を切ってしまったのだった。
そのことによって、村人たちは餓死を免れ、村人たちは忠治を命の恩人と崇めていたのだった。
屋号
この地の街道(国道406)を走っていると、普通の住宅にもこんな看板が立っている
この町ではそれぞれのお宅を昔ながらの屋号で呼び合っているようだ。
他国者
「赤城の山もこよい限り」とはどういう意味ですか?
忠治 : 赤城の山も今夜限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て、国(故郷)を捨て、可愛い子分のてめえ達とも 別れ別れになるかどで(首途)だ。
貞八 : そういやあ 何だか 嫌に寂しい気がしやすぜ。
巌鉄 : ああ、雁が鳴いて 南の空へ飛んで往かあ!
忠治 : 月も西山に傾くようだあ。
貞八 : おらあ 明日からどっちへ行こう?
忠治 : 心の向くまま 足の向くまま、あても果てしもねえ旅に立つのだ。
巌鉄・貞八 : 親分!
群馬男
その話は順番としては、大戸の関の話より前の話です、このころもすでに幕府の役人に追われて、赤城の山の中腹の洞穴に隠れていましたが、役人にそれが知れて、周囲をぐるり囲まれて、しまって、
大勢の子分を連れて逃げるんは無理と考えた忠治は、今風に言うと「ここでいったん解散するべぇ」と子分たちと「お別れ会」の場面だ。そのあとあっちこっち逃げ回って、大戸の里にたどり着いたっつうことになる。
だから、ここ大戸は赤城山の隣にある榛名山の麓のことになるんだ。
名月赤城山の名場面だ。
このとき忠治が隠れていた、洞穴のちょっと上の方に滝沢不動の滝っつういい滝があっておらぁなんねんか前に行って来た。(また、滝の話んなっちゃった、ごめん!)
ついでにその滝沢不動の滝の写真も
他国者
さすが 群馬男です。 \(^o^)/パチパチパチです
by gunmaotoko
| 2017-08-03 20:05
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