群馬出身の望郷男と、群馬県のこと知らない他国者が、勝手に書き込んでいるブログです
2017年 03月 20日

磯部・人見堰

(745)・磯部の人見堰・


江戸時代中頃 磯部田んぼを耕す百姓たちは

「あぁ、水が欲しい、水せぇありゃぁ米がつくれるんになぁ」
「瀬戸(せど=裏の方のこと)の碓氷川にゃぁ、船がとおれるくれぇ水が流れてるっつうんに、俺んちの田んぼは干上がってて、田植もできやぁしねぇ、水がほしいなぁ。なんかいい方法はねぇだんべぇか」

皆口々にそう言っていたと思う。

碓氷川にはとうとうと水が流れていたが、碓氷川段丘の中段に位置する磯部地区から見ると、碓氷川30間も低いところを流れていた。

そして1658年この百姓たちの悩みを聞いたときの磯部地区の領主仙石稲葉守久俊はいろいろと考えて、碓氷川の上流から水を引いてくるしかないと考えた。
1666年、計画を練って隣の人見村の領主に、「あなたの領内の碓氷川に堰を作って、領内を通って磯部の田んぼまで水を引かせてもらいたい」と申し入れた。

人見堰絵図(磯部誌より引用)この絵図は上が南を指している。
下の流れは碓氷川中央の斜めの流れが、人見堰、上の流れは柳瀬川(やながせがわ)でこの先は碓氷川に合流する。
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その時の人見村の領主は・・・・相手が悪かった。
吉良若狭守、のちに全国区の有名人になった、あの忠臣蔵の原因人物吉良上野介の若いころだった。

このお方は若いころからそんな人だったようで、村民を巻き込んで「そんなことをしたって我が領地にゃぁ一文の得にもならねぇ、と言って反対した。交渉決裂。

稲葉の守は再度お願いに行った。
するといろいろと難癖をつけられ、磯部村にはかなり不利な条件も飲んで、ようやく了承されたのだったが・・・・工事は難航した、その頃のことを「碓氷郡誌」はこう記している。
・・・いよいよ寛文六年(1666)工事は始まったが、役半行程を進めたころ、流言蜚語(りゅうげんひご)が村に伝わり、それを恐れた人夫が来なくなってしまって工事は頓挫してしまった。
原因は若狭守によるものとわかっていても所轄が違えば何もできない当時のしきたり。

工事中断から二年の歳月が無駄に流れた。
そこで仙石因幡守久俊は、考えた末に、己の領地(4千石)を幕府に奉還し、幕府直属の支配のもと工事を施工するより方法はないと一大決心をし、返還を願い出ました。

「私の四千石の領地は幕府に奉還いたしますから、幕府の直轄事業として、堰の工事を進めて完成させていただきたい」と申し入れたのだった。
a0290852_9242713.jpg彼の思いは幕府に聞き入れられ、1673年、幕府直営工事として再び着工され、幕府の直営とあってはお隣の吉良殿も手出しはできず、「御用旗のもと僅か17日間で全長1557間半(2,831メートル)、水
路幅一間半(2.73メートル)の水路が完了しました。


磯部村民は一身を犠牲にし、村民を救った大恩人と仙石公に深く感謝し、その徳を讃えて稲葉大権現として祀り、石祠を建立しました。石祠は、その後建立された頌徳碑と供に、安中市の指定史跡となっております。

仙石公の頌徳碑(現安中市磯部1丁目)
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時は移り、平成の時代となった今でも、毎年4月に安中磯部土地改良区主催で祭典を行い、仙石公及び先祖代々、人見堰を守り続けた人々に感謝の気持ちを捧げ、併せて農業の繁栄を祈念しております。
その様子
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人見堰の工事現場の画像などはあるはずもないが現在の人見堰の画像はある。

碓氷川から取水するところは、安中市松井田町二軒在家(それとも高野谷戸=こうやがいと)
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このあたりは、江戸時代は人見村だったが、現在は町村合併で安中市に属している。
この取水所のことをどんな意味か知らないが「ピーア」と呼んだ。
先日甥にその話をしたら、甥は、今でもピーアっていうよと言っていた。

途中、県道213号と交差する部分(磯部変電所西)(カメラは北向)
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この県道213号の側溝にはこの堰からの水が勢いよく流れていたのを覚えている。

人見堰の終点、中央のガードレールのあたりで、柳瀬川と合流する。(カメラは南向)
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向こう側の山は碓氷川段丘の上段の土手になる。柳瀬川は遠く妙義山のあたりからの水だと古文書には書いてあるが、水量は少なく上流で、田植えをすれば下流には水は流れなくなる。

綺麗な水の流れる川だが、ひとたび大きな夕立が来るとすぐにあふれる川だった。
昭和30年代の参考画像、
この川の下流に碓氷川から水を引くという物語でした。モデルはこの群馬男です
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他国者

この話はとはどの地方の話なのでしょうか。
磯部(いそべ)は、群馬県安中市の地名なのです。
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群馬男

この話は、私、群馬男の生まれ故郷の、今から350年前の話です。

私生まれも育ちも上州です、上州、上州と申しましてもいささか広うござんす、上州は西の隅っこ碓氷ごおりは磯部の生まれにござんす・・・・ということで、このブログにも時々書いているように磯部の生まれです。
今回の堰の水は、俺んちよりも下流の話で、水は上流の方側に隣の村から引く話なんで直接は関係なかった話だし、この時代にはまだ俺んちはなかった。
俺んちはこの地で一家を構えて百姓を始めてっからまだ10代目くれぇだから、まだ新参者なんさ。

他国者は俺んちのあたりのこたぁあんまり知らねぇようなんでついでにこけぇ書いとくけど、俺んちは群馬県の真ん中へんにある高崎(これくれぇは知ってるだんべぇ)から昔だったら軽井沢の方っつったんだけど、いまじゃぁ汽車が横川までっきゃいかねぇんだ、あの碓氷峠に向かう中間に磯部っつう温泉のある駅があるんだ。俺んちはその街で百姓をやってるんサ。今じゃ安中市だけど。
大雑把な場所は、その遠足マラソンの国道18号と、有名になった富岡製糸場のちょうどまんなかあたりの話なんさぁ。

俺が一番書きたかったんは、忠臣蔵は赤穂の話だと思っていたら、あの吉良上野介が俺んちの隣村にいて(20代半ばころ)、名前に上野(こうずけ)の字が入っていたので、なんでかなぁと思っていたが、やっぱりこの人は群馬に縁のある人で、釈だけどやっぱり意地の悪い人だったことと、磯部のあの堰にこんな歴史があったっつうことだ。

他国者

知りませんでした。調べたら・・・・

忠臣蔵で有名な吉良家は、現在の藤岡市白石に七百十二石を領し、慶安3年(1650年)から元禄16年(1703年)までここに陣屋を置きました。

吉良上野介の陣屋跡には、領主吉良若狭守の正室が、伊香保温泉に湯治した帰途、この屋敷に滞在して上野介義央を産んだとされ、産湯を汲んだと云われる井戸(下の写真)が残っています。井戸水は毎月1回赤く染まったことから「汚れ井戸」と呼ばれ、飲料水にはしなかったと云われています。

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群馬男

他国者も群馬県のことがちったぁわかってくれたんだんべぇか?




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by gunmaotoko | 2017-03-20 20:05 | Trackback | Comments(0)
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