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群馬出身の望郷男と、群馬県のこと知らない他国者が、勝手に書き込んでいるブログです
2014年 08月 25日

突然の製糸場ブームに繭が不足

(291)群馬の養蚕 うれしい悲鳴

群馬県産繭が在庫不足 遺産登録で引き合い増 増産へ「晩々秋」補助

突然の製糸場ブームに繭が不足_a0290852_2363328.jpgこんなニュースが目につきました。
養蚕のことを知らない他国者には???

「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録で
県産絹製品の需要が高まり、繭や生糸の在庫が不足して急増する引き合いに対応できていないことが分かった。
在庫不足の解消へ県と碓氷製糸農協(安中市)は、近年ではほとんど行われていない「晩々秋蚕期」の生産を呼び掛け、晩々秋に使う蚕種の購入費補助を始める。養蚕の生産基盤強化も目指し、異例の増産支援となる。

6月の登録決定前後から一気に注目が集まり、富岡産シルクへの引き合いが急増
7月現在の乾繭の在庫は313キロで、3月時点の1577キロから5分の1に減った。
晩秋蚕期までに予定している生産量では、在庫が尽きてしまう可能性があるという。
 
                        上毛新聞記事より

他国者

養蚕のことまったく知らない他国者です。
調べてみました。

蚕の飼育は掃立てした日により区分(蚕期)があり下記のように5蚕期区分あります。

   ① 春蚕期(はるさんき)
   ② 夏蚕期(なつさんき)
   ③ 初秋蚕期(しょしゅうさんき)
   ④ 晩秋蚕期(ばんしゅうさんき)
   ⑤ 晩々秋蚕期(ばんばんしゅうさんき)

今までは晩秋蚕期の生産でまかなえたのですが需要が多いので、1年のうちの最後の季節の蚕の卵を育てるように増産支援をする?
世界遺産登録は様々なところに影響が出ているのです。

群馬男

お蚕がそんなことになってるたぁちっとも知らなかったけど、嬉しい反面こまったことだいなぁ。
だって繭が売れたって蚕を飼える人がいねぇしくわばら(桑畑)だって今じゃぁろくになくなっちゃったんべぇ。
桑の木っつうなぁ種ぇ蒔いたから次ぐ年(翌年)にゃぁすぐ使えるっつうもんじゃぁねぇんだ。
種ぇ蒔いてちっちゃぇ苗を作ってその根っこに使いてぇ種類の桑の枝ぁ接ぎ木するんだ。それが桑の苗で、それぇ畑ぃ植えて幾年もたたなくっちゃぁお蚕にくれるほどの桑の木にゃぁならねぇんだ。

実家の兄貴は俺がまだうちにいたころは、この5期の養蚕を全部やったことがあった。
その合間に田圃の方のやったんで、寝る間も惜しんで働いていたっけ。


①が春子(はるご)っつって五月の連休のころに掃き立てる(孵化させる)
②が夏子で田植えが終わったらすぐに掃き立て。
③がそれがまだ繭を作り始めねぇうちに掃き立てる。まだ夏だけど、こよみじゃぁ立秋が過ぎてるから、初秋蚕だ。
④も前のがまだ桑ぁ食ってるうちに掃き立て、秋になるんで、中秋蚕ってゆう。
それが終わらねぇうちに晩秋蚕を一度やって・・・・。
⑤は桑の残り具合を予想して9月に掃き立てる晩晩秋蚕だ。
これはうっかりすると霜が降りて桑の葉っぱが茶色になって使えなくなっちゃうこともあるんだ。

これが終わるころにゃぁ、もう稲が黄色くなって、稲刈りが待ってるんだ。

去年暮れに亡くなった兄貴のうちにゃぁ、兄貴がせわぁしていた、いいクワバラがあったけどどうしたかなぁ。
だけどあの倅は養蚕なんか知らねぇだんべぇから、近所の人にでも桑のはっぱぁ使ってもらやぁいいと思うけど。

遠くの方で俺がこんな心配ぃしてたってしょうがねぇやぁなぁ。近所に百姓の親戚もあったからその衆がなんかかんげぇるだんべぇ。

他国者

晩々秋蚕期を育てるということは珍しいということですか?
そのくらい蚕が不足?

群馬男

日本人つうなぁ珍しいものにとびっつくから、今は珍しいだけでとびっついてる人が多いんだんべぇ、だから業界でも売れるときに何とかしてちっとでも売りてぇんだんべぇと思うよ。
その気持ちは解る。今までは売りてぇと思ったって、中国産に押されて売れなくってしょうがねぇ養蚕をやめた人がうんといるんだから。
だけど晩晩秋蚕が終わるまで、霜が降りねぇでいてくれりゃぁいいけど、今年の天候はちょっとくるってるから心配だいなぁ。


・・勉強室・・

養蚕の歴史


養蚕の歴史は古く、かつて中国の宮廷内で秘密に行われていました、日本には紀元前200年ぐらいに稲作と一緒に伝わったと言われています。604年に制定された十七条憲法には「春から秋に至るまでは農桑の節なり」と書かれており、飛鳥・奈良時代にはすでに国内で養蚕が盛んになっていました。また、この頃に厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)が「養蚕訓」の中で「養蚕するものは子育てと同じく、愛情をもって育てよ」と唱えています。


製糸の機械化は江戸時代末頃から勧められ、1900年ころには生糸輸出国として中国を抜いて世界一となり明治時代を代表する産業となりました、そして日本国内の近代化は生糸輸出により得た外貨でさらに進んでいきました。やがてレーヨンやナイロンなどの化学繊維の普及や1929年の世界恐慌などで生糸の売れない時期が訪れますが、戦後の復興期を経て、昭和30年〜40年頃に再び養蚕はピークを迎えます。


昭和40年の終わりころになると和装需要の減退や海外からの絹二次製品の輸入増加で国内の養蚕業は減衰していき、世界最大の生糸会社だった片倉工業も1994年(平成6)12月には最後の製糸工場熊谷工場を休止し、片倉工業の蚕糸業121年の幕が閉じました、そして現在は養蚕農家の高齢化などもあり、かつては世界一だった日本の繭生産量は現在では最盛期の1%以下になってしまいました。
                                                       

   参考資料引用




by gunmaotoko | 2014-08-25 21:30 | Comments(0)
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